ホグワーツに行きたい!

いつかホグワーツから招待状が来る、そんな日を夢見て書いてる暇つぶし。

年賀状

気づけばもう師走で、外は凍てつくように寒いのに街はどこか浮かれていて、そんなわけで外に出るのが嫌になってずっと家にいるような日々だ。昼ごはんは贅沢にもUber Eatsで済まし、ダラダラゴロゴロしてようやく夜から活動開始するような毎日を2週間近く続けてしまったので、さすがに反省せねばならない。駒場祭ロスという言い訳が通用する期限はとっくに過ぎた。

さて、所属していたサークルの1つを先日引退し、役員やらなんやらをやっていた関係もあっていろんな人からメッセージカードをもらった。同時に僕も何枚かメッセージカードを書く機会があったのだが、その時、「普段当たり前に交流している人に改めてちゃんと想いを伝える大切さ」みたいなのを改めて痛感した。例えばとてもとてもお世話になっている人がいて、何度も助けられ、その度その度お礼を言ってはいても、それだけではやはり伝わらないものがある。少し時間をとって、想いや言いたいことを整理して、ちゃんと文字に起こして伝える、というのはかなり重要なことだと思う。別に手紙みたいな形じゃなくて、口で伝えるのでもなんら問題はないけど、何はともあれちゃんと改まって気持ちを伝える、という場は必要だ。

表層的になりがちな人間関係において、一段階先に進む大きなきっかけはこれがあるかないかではないかと思う。(「あるかないかではないか」とはややこしい。)別に大げさなものじゃなくていい。ただふとしたきっかけに、普段思っていることをポソッと伝えるのは、伝えられた方も嬉しいし伝える方もなんかスッキリするはずだ。そして日本には、その点で「年賀状」という素晴らしい文化がある。1年の始まりという節目に、お互いちょっと近況報告とか日頃の想いを伝えてみる、ってのはなかなか良い。同時に、普段あんまり会わない人のこともフッと思い出させてくれるのも年賀状の良いところだ。

というわけで、今年は年賀状を書きます。こんなブログ書いてるけど、結構淡白な文章を送りつけていきます。何卒。

 

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音楽

どうして戦争は、差別は、いじめは、なくならないのだろう。カラオケボックスで熱唱しながら僕はふとこんなことを思った。

いや急にどうしたお前、ってなりそうだけど、何も僕は「すべての戦争はロスチャイルド家の計画だ」みたいな陰謀論を語りたいわけでもなく、心理学的な観点から差別が起こる背景を説明したいわけでもなく、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」みたいなBABYMETAL的いじめ反対運動をしたいわけでもない。僕はただ、音楽っていいなぁって話がしたい。

おかげさまでそれなりに楽しい人生を送らせてもらってるわけだけど、生きててどの瞬間に一番幸せを感じるかというと僕の場合は好きなアーティストのライブに行った時だ。ライブが生きがいになっていると言っても全然過言ではない。「二週間後にライブあるし、それまではがんばろ」みたいな感じで自分を鼓舞して生きている日常なのだ。友達とサイゼリヤで談笑しているときにも、Youtuberを見て爆笑しているときにも得られないような熱狂がそこにはある。冗談抜きで「俺こんなに幸せでええんやろか…」ってライブ中は思う。「音楽が好き」という感情を共有した人たちが一箇所に集まり、アーティストの叫ぶ声に合わせて同じく声をあげ、踊り狂う。本当にすごい空間だなぁと思う。

そういう熱狂的な興奮だけでなく、音楽は同時に勇気を与えてくれる。信じられないくらいこの世の中には良い曲が多い。僕はあんまり歌詞を聴くタイプではないんだけど、それでもやっぱり歌詞に感動することは多い。あまりにも多くの音楽に励まされ、勇気づけられ、笑わされてきた。なんか嫌なことがあったりモヤモヤする1日の終わりにも、帰りの夜道を音楽聴きながら歩いてると自然とテンションが上がり一人でニコニコしてる気持ち悪い男になってしまうような、そんな摩訶不思議な力を音楽は持っている。

フェスに行ってサンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」でその場にいた全員で「愛と平和!」と何回も繰り返し叫びながら、カラオケでSEKAI NO OWARIの「インスタントラジオ」を歌いながら、嫌なことがあった次の日の朝に独りBase Ball Bearの「changes」を聴きながら、世の中にはこんなに素晴らしい音楽が無限にあって、性別や国籍、宗教に関係なく無限の人々が音楽を愛しているのに、どうしてしょうもない争いは無くならないんだろうと思ってしまうのだ。何も音楽に限った話ではない。話を大げさにしてる自覚はあるけど、どんなクソ野郎も音楽を聴いたり、映画を見たり、本を読んだりして涙を流したり感動したりしたことはあるはずなのに。

日々を生きていると、些細なことで争ったりしている人が多い。ファミレスでなかなか料理が来ないのことにやたらとイライラしてるおじさんとか、前を並んで歩いてる小学生にブチ切れ顔で自転車のベルをけたたましく鳴らしまくっているおばさんとか。僕自身、朝の満員電車とかで足を踏まれたり日大アメフト部ばりに理不尽なタックルをお見舞いされたりしてたまにイラっとしてしまっている自分がいる。そんなときに、でもこの人たちも自分と同じように音楽や本や、芸術を愛して、大変な日々を生きているんだなと思うと少し許せそうではないだろうか。

「いやそれ関係なくね?」と思うかもしれない。ちなみに僕は思った。「俺の言ってること1ミリも論理通ってねぇ…」と思いながらこの文章を書いている。でもやっぱ、「音楽とか、映画とか、スポーツみたいなのにみんなで熱狂できる人間っていいなぁ」っていう安っぽいヒューマニズムに時々浸ってしまうのである。この前、家庭教師先の本が大好きな小学4年生が、「この世に本がある限り、僕の楽しみは無くならない。世界にはいっぱい本があるし、その本を僕が全部読み切ることは多分ないから、僕の人生はずっと楽しい」みたいなことを言ってて普通に感動してしまったんだけど、本当にすごい良い言葉だなぁと思う。些細なことにイライラしてる場合じゃねぇ。戦争してる場合じゃねぇ。差別やいじめに時間使ってる場合じゃねぇ。そんな時間あったらこの世界に無限に存在する芸術たちを楽しめやコラァと、物事はそこまで単純ではないのは百も承知の上で思う。

こんなポエティックな文章を書いてしまったのはこの前「オーデュボンの祈り」を読んだからだろうか。それとも僕は、案外ロマンチストなんだろうか。そんなことより誰か早く一緒にカラオケに行こう。

 

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好きなものはなんですか

「将来何になるの?」「最近何してるの?」「なんでそんなバイトしてるの?」「サークルは何やってるの?」「そのサークルに入っているのはどうして?」

「うるせぇ!!!」と叫びたくなる。だが叫んでも仕方ない。一部の大学生のコミュニティではしばしばこのような質問が飛び交い、それに自信を持ってはっきりと答えられない人間は『何も考えず生きているつまらない人間認定』されかねないのだ。

「なんのために生まれて、なにをして生きるのか。答えられないなんて、そんなのは嫌だ!」みたいな、やなせたかし的価値観を共有した世界がそこには形成されている。まあこれはいささかひねくれたものの見方かもしれないが、周りの大学生や社会人と話しているとこんなことを聞かれることは実際多い。ゴールから逆算して行動の「なぜ」を考える重要性を否定する気はさらさらないし、なんならめちゃくちゃ大切なことだとは強く思うのだけれど、生きづらい世の中だなぁと苦笑いしたくなることもある。高校生までは「楽しいから」「好きだから」「そこにあったから」「ナニモカンガエテマセン」とさえ答えれば「いいね!!」と返ってきたような質問が、大学では同じ言葉を答えれば「ふーん、そうなんだ…。(つまんね)」となりかねないのだ。もちろん思考が高校生のままでいいとは全く思わないしそういった質問を投げかけられることで良い内省の機会になることも多いが、僕みたいなちゃらんぽらんはこうした質問をされるとしばし詰まってしまう。

「へー、今東大の2年生なんだ。将来は何やるの?」

「え…、いやまぁ色々あってまだ考え中ですかねー。(何も考えていない)」

「あ、そうなんだ。(バイバイ)」

みたいなやりとりを今まで何回繰り返してきただろう。大学生が築くべきものの一つに人脈があると思うが、どれだけ面白い人と知り合う機会を得ても、自分がこれではすぐにつまんないやつ認定されてせっかくの機会を生かしきれず終わることがほとんどだ。これはあらゆる交流会的な場に対して言えることだが、ファーストインプレッションでどれだけインパクトを与えることができるかでその日の成果は決まる。僕はこれが苦手だ。サークルやクラスみたいな、継続的に何度も集まるコミュニティで打ち解けて人と仲良くなるのは苦手ではないのだが、一度きりの交流会で友人を作るのとかは本当に無理だ。その原因は「コミュ障」と「チキン」に集約されるのだが、まあ見た目の冴えないぐるぐる天パクソメガネがボソボソと「将来のことは特に考えてないです…」とか言ったところで惹きつけられる人間など一人もいないことは火を見るよりも明らかだろう。

このままじゃいけない。さすがの僕もそう思った。将来の夢なんてそんな簡単に見つかるののではないだろうが、とりあえず何か自分の興味分野や好きなことを見つけ、それを突き詰めてみるといった作業が必要らしい。別に崇高な目的や大志が必要な訳ではない。「好き」なことは誰も否定できないし、好きなことを全力でやってる人はかっこいいし楽しそうだ。僕もまずは好きなことを見つけてみよう。以上が僕が「好きなものはなんですか」という井上陽水的問いにぶち当たった経緯である。夢の中へ行きたいところだがそうも言ってはいられない。

「自分の好きなこと、やってて夢中になれることってなんだろう…」

そう考えたときに最も納得のいく答えが「ものを書くということ」だった。昔から本を読むのは好きだったのだが、読むだけでなく書くのも好きだった。小4の時に書いた作文は学校代表に選ばれ謎の市の広報誌に載ったし、小学校高学年の頃には自作の需要のないバカみたいな小説を書いて、勝手に教室の棚に置いていた。自由帳に汚い字で書いた(執筆)原稿を手で破り(印刷)、セロハンテープで止めて(製本)、本棚に並べる(出版)のである。あまりにアナログなぺらぺらの自費出版本はクラスの後ろの棚にかいけつゾロリズッコケ三人組シリーズと一緒に並んでいた。優しい一部のクラスメイトたちはそれを読み、感想を僕に伝え、次回作を待ってくれていた(?)のだが僕はそれがとても嬉しかった。その内容は今もなぜかかなり覚えているが、あまりに下品でチープなのでここではやめておこう。また、小6の時には先生に直談判して「新聞係」という新しい係を作って、クラス新聞を発行していた。ものを書いているときは夢中になれたし、それを読んでくれる人がいるのが何より嬉しかった。小学校の頃の夢は新聞記者だったし、小説家になりたいなぁと本気で考えたりもした。

中学以降そうした機会は減り、なんとなく楽しく生きる日々が続いたが、大学生の今、自分がやってて楽しいことを考えたときに、「ああ、やっぱ自分は何かものを書いてる時間が好きなんだな」というのを再認識した。別に物書きを職業にしようと思っているわけではない。ただ、(例えばこのブログみたいに)自分の思っていることとか日常を発信したり、日々の考えを適当に綴って思考を整理したりするのは楽しいし、そこから気づきを得ることもあるので続けていきたいなぁと思う。最初に挙げたような問いの答えにはなっていないかもしれないが、「楽しいから!好きだから!」というだけの理由も時には良いと思う。「なんでだろう」「どうなるんだろう」「んご」なんて考えすぎて、疲れちゃうくらいなら、とりあえず楽しいことをやってればいい。そう思います、はい。だからこのブログももっと更新できればなぁと思います、はい。

 

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みかん

秋はみかんが美味しい。いや、秋というにはまだ早いか、と思ったらもう10月だった。この前まで滅入ってしまうような暑さだったのに急激に寒くなってきて、あと数年もしたら日本から四季は失われて夏と冬しかなくなるんじゃないかとさえ思う。いわゆる“春”や“秋”という言葉から想起されるようなふんわりした陽気を感じる日はもうほとんどなくなってしまった。

話を本題に戻そう。そう、秋はみかんが美味しい。みかんといってもあのとびきり青色のやつだ。冬に食べるまぶしいような橙色のやつではなくて、秋は黄色と緑が混じったような小粒のみかんがスーパーの店頭に並ぶ。400円の出費は一人暮らしの貧乏大学生にはちと痛いが、青々しいみかんはそれも仕方ないと思えるくらいには甘酸っぱい。外に出ても夏か冬かしかなくて、毎日Tシャツを着るかパーカーを着るかを悩むような日々だけれども、家で座ってあの青いみかんを食べているときだけは秋を感じられる。

長いようで短かった(あまりに月並みな表現だが)夏休みが終わり、大学が始まった。夏休みを通じ完全に崩壊した体調と生活リズムは毎日欠かさずキレートレモンを飲んでいるにもかかわらず回復せず、それに反して多忙な日々が続いて気がついたら訳も分からず10月になっていた。急に増えた授業(結局まだ一回しか行けていない)とバイト、サークル、免許学校、その他遊びでスケジュール帳はギチギチになり、ゆっくりする時間が減ってしまった。予定が詰まっている感覚も嫌いではないのだが、もともと家でボケーっとアマゾンプライムビデオを見ている時間が何より大好きな怠惰な人間なのでなかなか疲れがたまる。家でゆっくりできるのはたいてい23時以降で、その時間帯は映画やドラマを見るにはちょっとしんどい。シャワーを浴びて、キレートレモンを飲んで、みかんを食べながらアマゾンやメルカリを徘徊したり、眠っているたまごっちを眺めているのが最近の過ごし方だ。やっぱりその時間が一番落ち着く。何も考えずスマホやパソコンをいじりながら、何も考えずみかんの皮をむき、頬張る。パソコンの右側に積み上げられたみかんの皮の山を見て謎の満足感に浸りながら目覚ましをかけて眠りにつく。

大学構内に嫌がらせのように植えられている銀杏も秋を教えてくれているのかもしれないけど、東京で僕に秋を感じさせてくれるのはこの青いみかんだ。あと1,2ヶ月したらスーパーの店頭はきっとあの橙のみかんでいっぱいになるんだろうけど、今はこの青いみかんを目一杯楽しもう。そして冬が来たら、今度は嘘みたいに橙色になったみかんをまるで元からそんな色であったかのように頬張ろう。

 

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はたち

10代の頃は〜、なんてことが言えてしまう立場になった実感がまだない。本を読んでいても、親戚のおじさんと話していてもよく目にする表現だがそんな表現ができる年齢に自分もなってしまったのだ。

 思えば中学生に上がる時の僕の興奮といえばそれはもう凄いものだった。「制服を着て、一人で電車に乗って通学する」とか「電車の切符が大人料金になる」とか「子供だけでサイゼリヤに行ってもいい」とかそういうこと一つ一つにやたらとワクワク感を覚えて、「中学生になったら〜」なんて会話を小学校の教室でクラスメートとしたのをなぜだかよく覚えている。

 それと比べれば、ハタチになることに対する僕の感情はほとんど無に近かった。無というか、「二十歳になる」という事柄は別に「明日は朝からバイトがある」というのとほとんど変わらないことで、ちょっとレアなただのイベントでしかなかった。例えば、「明日は朝からバイトがあって美人のあの子と一緒のシフトだ」と同じくらいのレア度だ。二十歳になったら酒も飲めるしタバコも吸えるし、いよいよ大人って呼ばれるしなんか今までは入れなかったところとかにも入れるようになるし、できるようになることは中学生の比じゃないはずなのにワクワク感は全くないのは大人になったからなのだろうか。当たり前だけど、成長するにつれて人は感情を制御することを求められ、学び、社会の一員として適切な振る舞い方を身につけていく。その過程でかつての純粋無垢さのようなものは失われていく。それはもちろん正しい成長の過程ではあるのだけど、やっぱりどこか寂しいことでもあるなぁとふと思う。まあ純粋無垢な笑みを浮かべながら「僕は明日から二十歳だからお酒が飲めるんだよ、わくわく」とか語っている大学生がいたとしたらちょっと気持ち悪いのは間違いないが、ハタチになる、ということに対してもうちょっとワクワクしてみたかったなぁっていう謎の寂しさも感じてしまう。

 そういうわけで、僕は特になんの感情の動きを伴うこともなくハタチを迎えた。幸い20歳の誕生日はサークルの合宿と被っていたので、周りの多くの友人に祝ってもらいそれは嬉しかったのだが、やはり実感は伴わなかった。僕は変な人間なので「うおおこれで俺もハタチだぜぇぇぇ」みたいな感覚が欲しかったのである。二十歳になった瞬間肩から変なツノが生えて来るくらいのサプライズが欲しかったのだ。わかってくれるだろうか。

 なんの準備もしていないのに、気がつけば時計の針は0時を指し、10代の僕は失われてしまったのである。なんということだ、恐ろしいではないか。僕はもう2度と10代になり得ないのだ。「10代のうちにしておきたい17のこと」みたいな本はもはや僕の前ではなんの意味もなさない紙切れになってしまった。今までは当事者として聞いていたはずのBase Ball Bearの青春ソングたちももはや昔を振り返りながら聞くべき立場になってしまった。僕はもう二十歳なのだ、10代ではないのだ。その恐ろしさを僕は二十歳になってしばらく経った今ようやく実感している。心だけは昔も今も変わらない気持ちでいるけど、僕はもう小学生の時に、バカみたいに大きく得体の知れないものに見えたあのはとこのお兄さんと同い年なのだ。怖い怖い。

 上で急に成長すると感情を制御するようになり云々、みたいなわけのわからないことをいきなり言い始めたのもこの感覚がきっかけだ。自分はもはや子供ではない、大人だという感覚が二十歳になって少し経った今急に自分の中に生まれてきている。それによって得たものは中学生の時のようなワクワク感ではなくただの焦りだ。この焦りの原因はよくわからない。でも、人間はこんなにも簡単に大人になってしまうのか、こんなにも未熟な自分がもう社会では大人として認知されてしまうのかという感情は大きい。人生は一般的にうまくいっても80年である。蒙古タンメンをむやみに食べている僕が80まで生きられるとは思わないので、60で死ぬと見積もれば、もう3分の1が終わったのだ。その間に自分は何をしただろう。ただやたらに二酸化炭素を撒き散らし地球温暖化に貢献した以外のことをしてきただろうか。もちろん二十歳になる前に何かを成した人なんて本当に数える人しかいないし、そんな大人物になろうとも思ってないのでそのことへの焦りや後悔みたいなのは全くない。むしろ僕の19年間は恵まれた環境で過ごした楽しい19年であり、胸を張って悔いがないと言えるものでもある。ただ、そんな風に楽しく育ってきた世間知らずのぐるぐる天パクソメガネが今から数年のうちに社会に出て大人として働いていけるのかということへの不安はものすごい。今はまだ二十歳とはいえ大学生だから、という言葉のバリアが多少は僕を守ってくれている。そのバリアが機能しているうちにもう少しまともな人間にならないとなぁと強く思う。

 僕は自分で言うのもなんだが多分生きるのがまあまあ上手で、それでこれまでの人生はなんとか楽しくやってきた。色々適当にやっていても結果的には大体のことはうまくいったし、これからもそうなるんだろうと思っていた。でも最近そうじゃないんじゃないかというのに気づき始めてしまった。当たり前だけど、真面目に生きている人は、強い。大学生になってからそれを強く感じる。今まではどこかで真面目だけが取り柄のやつには絶対負けないと思っていたけど、最近そうじゃないなと知ってしまった。そもそも真面目が取り柄のやつは真面目を通じて他のいろんな能力や強みを身につけていくので真面目だけが取り柄じゃなくなっていく。適当に生きているだけじゃ、そいつに勝てるわけがない。「勝ち」とか「負け」とかいう言葉は嫌いだけど、いっぱしの人間になるために、自分に必要なものをちゃんと得る必要があるなというのをハタチになった今思う。もちろん「真面目さ」以外にも無限に必要なものはあって、そして自分がすでに持っている強みも無限にあって、それを正しく理解し使えるようになってこそ、ようやく社会へ安心して出ていける。とりあえずは「まじめにふまじめかいけつゾロリ」スタイルで生きてみようと思う。

 今ようやく、なんで二十歳になる時にワクワクしなかったのか分かった気がした。上では「ただのイベントでしかなかったからだ」みたいなクソカッコつけたこと書いたけど、多分違う。中学生になるときは何も責任を伴わない。中学生になる、というのはただできることが増えるだけで新たに背負う義務みたいなものはほとんどない。中学一年生なんてまだまだクソガキで、親の庇護下にあって、道路でションベンしていてもギリギリ許してもらえるような年齢だ。二十歳になるのは、それと全然違う。ぶっちゃけできるようになることなんてそんなにない。お酒はすでに多少は飲んでいるし、タバコなんて別に吸わない。二十歳以上しか入れないクラブになんかいくような人間じゃない。でも、確実に自分が大人になったことを教えられる。「お前は二十歳になったんだ」って宣告されることは「お前は大人なんだ」ってことだ。マナーやモラルを持っている必要があるし、一人でも食っていけるようにならなきゃいけない。二十歳になった時に友達に冗談で「これでもう逮捕されたら実名報道だぜ」なんて言ってたものだが、まさにそれなのだ。

 ああ、もう人生はお先真っ暗だ、なんて気もしてくる。これから先の人生はやらなければいけないことばかりが増えて自由ばかりが減っていくような気がしてくる。それが大人になるということだ、黙れガキと言われればそれまでだがそれでもやっぱり辛いものは辛い。ただ、無限に楽観的な自分の性格が功を奏してなのかなんなのかわからないが、未だなお結局なんとかなるんじゃね、と思っている自分がいる。人生はなんだかんだイージーだし、うまくいくし、最高だし、まあなるようになるよって。そんな未来予想図を現実のものにして、60歳の自分が「ワシは10代の頃はな…」なんて孫にドヤ顔で語れるように、今を生きていこう。

 

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