ホグワーツに行きたい!

いつかホグワーツから招待状が来る、そんな日を夢見て書いてる暇つぶし。

はたち

10代の頃は〜、なんてことが言えてしまう立場になった実感がまだない。本を読んでいても、親戚のおじさんと話していてもよく目にする表現だがそんな表現ができる年齢に自分もなってしまったのだ。

 思えば中学生に上がる時の僕の興奮といえばそれはもう凄いものだった。「制服を着て、一人で電車に乗って通学する」とか「電車の切符が大人料金になる」とか「子供だけでサイゼリヤに行ってもいい」とかそういうこと一つ一つにやたらとワクワク感を覚えて、「中学生になったら〜」なんて会話を小学校の教室でクラスメートとしたのをなぜだかよく覚えている。

 それと比べれば、ハタチになることに対する僕の感情はほとんど無に近かった。無というか、「二十歳になる」という事柄は別に「明日は朝からバイトがある」というのとほとんど変わらないことで、ちょっとレアなただのイベントでしかなかった。例えば、「明日は朝からバイトがあって美人のあの子と一緒のシフトだ」と同じくらいのレア度だ。二十歳になったら酒も飲めるしタバコも吸えるし、いよいよ大人って呼ばれるしなんか今までは入れなかったところとかにも入れるようになるし、できるようになることは中学生の比じゃないはずなのにワクワク感は全くないのは大人になったからなのだろうか。当たり前だけど、成長するにつれて人は感情を制御することを求められ、学び、社会の一員として適切な振る舞い方を身につけていく。その過程でかつての純粋無垢さのようなものは失われていく。それはもちろん正しい成長の過程ではあるのだけど、やっぱりどこか寂しいことでもあるなぁとふと思う。まあ純粋無垢な笑みを浮かべながら「僕は明日から二十歳だからお酒が飲めるんだよ、わくわく」とか語っている大学生がいたとしたらちょっと気持ち悪いのは間違いないが、ハタチになる、ということに対してもうちょっとワクワクしてみたかったなぁっていう謎の寂しさも感じてしまう。

 そういうわけで、僕は特になんの感情の動きを伴うこともなくハタチを迎えた。幸い20歳の誕生日はサークルの合宿と被っていたので、周りの多くの友人に祝ってもらいそれは嬉しかったのだが、やはり実感は伴わなかった。僕は変な人間なので「うおおこれで俺もハタチだぜぇぇぇ」みたいな感覚が欲しかったのである。二十歳になった瞬間肩から変なツノが生えて来るくらいのサプライズが欲しかったのだ。わかってくれるだろうか。

 なんの準備もしていないのに、気がつけば時計の針は0時を指し、10代の僕は失われてしまったのである。なんということだ、恐ろしいではないか。僕はもう2度と10代になり得ないのだ。「10代のうちにしておきたい17のこと」みたいな本はもはや僕の前ではなんの意味もなさない紙切れになってしまった。今までは当事者として聞いていたはずのBase Ball Bearの青春ソングたちももはや昔を振り返りながら聞くべき立場になってしまった。僕はもう二十歳なのだ、10代ではないのだ。その恐ろしさを僕は二十歳になってしばらく経った今ようやく実感している。心だけは昔も今も変わらない気持ちでいるけど、僕はもう小学生の時に、バカみたいに大きく得体の知れないものに見えたあのはとこのお兄さんと同い年なのだ。怖い怖い。

 上で急に成長すると感情を制御するようになり云々、みたいなわけのわからないことをいきなり言い始めたのもこの感覚がきっかけだ。自分はもはや子供ではない、大人だという感覚が二十歳になって少し経った今急に自分の中に生まれてきている。それによって得たものは中学生の時のようなワクワク感ではなくただの焦りだ。この焦りの原因はよくわからない。でも、人間はこんなにも簡単に大人になってしまうのか、こんなにも未熟な自分がもう社会では大人として認知されてしまうのかという感情は大きい。人生は一般的にうまくいっても80年である。蒙古タンメンをむやみに食べている僕が80まで生きられるとは思わないので、60で死ぬと見積もれば、もう3分の1が終わったのだ。その間に自分は何をしただろう。ただやたらに二酸化炭素を撒き散らし地球温暖化に貢献した以外のことをしてきただろうか。もちろん二十歳になる前に何かを成した人なんて本当に数える人しかいないし、そんな大人物になろうとも思ってないのでそのことへの焦りや後悔みたいなのは全くない。むしろ僕の19年間は恵まれた環境で過ごした楽しい19年であり、胸を張って悔いがないと言えるものでもある。ただ、そんな風に楽しく育ってきた世間知らずのぐるぐる天パクソメガネが今から数年のうちに社会に出て大人として働いていけるのかということへの不安はものすごい。今はまだ二十歳とはいえ大学生だから、という言葉のバリアが多少は僕を守ってくれている。そのバリアが機能しているうちにもう少しまともな人間にならないとなぁと強く思う。

 僕は自分で言うのもなんだが多分生きるのがまあまあ上手で、それでこれまでの人生はなんとか楽しくやってきた。色々適当にやっていても結果的には大体のことはうまくいったし、これからもそうなるんだろうと思っていた。でも最近そうじゃないんじゃないかというのに気づき始めてしまった。当たり前だけど、真面目に生きている人は、強い。大学生になってからそれを強く感じる。今まではどこかで真面目だけが取り柄のやつには絶対負けないと思っていたけど、最近そうじゃないなと知ってしまった。そもそも真面目が取り柄のやつは真面目を通じて他のいろんな能力や強みを身につけていくので真面目だけが取り柄じゃなくなっていく。適当に生きているだけじゃ、そいつに勝てるわけがない。「勝ち」とか「負け」とかいう言葉は嫌いだけど、いっぱしの人間になるために、自分に必要なものをちゃんと得る必要があるなというのをハタチになった今思う。もちろん「真面目さ」以外にも無限に必要なものはあって、そして自分がすでに持っている強みも無限にあって、それを正しく理解し使えるようになってこそ、ようやく社会へ安心して出ていける。とりあえずは「まじめにふまじめかいけつゾロリ」スタイルで生きてみようと思う。

 今ようやく、なんで二十歳になる時にワクワクしなかったのか分かった気がした。上では「ただのイベントでしかなかったからだ」みたいなクソカッコつけたこと書いたけど、多分違う。中学生になるときは何も責任を伴わない。中学生になる、というのはただできることが増えるだけで新たに背負う義務みたいなものはほとんどない。中学一年生なんてまだまだクソガキで、親の庇護下にあって、道路でションベンしていてもギリギリ許してもらえるような年齢だ。二十歳になるのは、それと全然違う。ぶっちゃけできるようになることなんてそんなにない。お酒はすでに多少は飲んでいるし、タバコなんて別に吸わない。二十歳以上しか入れないクラブになんかいくような人間じゃない。でも、確実に自分が大人になったことを教えられる。「お前は二十歳になったんだ」って宣告されることは「お前は大人なんだ」ってことだ。マナーやモラルを持っている必要があるし、一人でも食っていけるようにならなきゃいけない。二十歳になった時に友達に冗談で「これでもう逮捕されたら実名報道だぜ」なんて言ってたものだが、まさにそれなのだ。

 ああ、もう人生はお先真っ暗だ、なんて気もしてくる。これから先の人生はやらなければいけないことばかりが増えて自由ばかりが減っていくような気がしてくる。それが大人になるということだ、黙れガキと言われればそれまでだがそれでもやっぱり辛いものは辛い。ただ、無限に楽観的な自分の性格が功を奏してなのかなんなのかわからないが、未だなお結局なんとかなるんじゃね、と思っている自分がいる。人生はなんだかんだイージーだし、うまくいくし、最高だし、まあなるようになるよって。そんな未来予想図を現実のものにして、60歳の自分が「ワシは10代の頃はな…」なんて孫にドヤ顔で語れるように、今を生きていこう。

 

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